昭和47年09月28日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 これは日柄方位の迷信。そういう本当でもない事を本当のように思い込む。そこから思い込む所から、結果がよくない事が起きてくる。今日はよい日じゃない日に思い立ったから、こんな事が起きたんじゃなかろうかとか。折角普請をしたけれども、家相が悪かったから、病気をしたのではなかろうかと。もう一番初めから家相が悪い事に引っ掛かっておる。今日は日柄がよくない事を、心のどこかで感じておる。
 迷うた事でもそのようにひとつの思い込んだり、信じたりすると、やはりそういう事が起きてくる。難儀な事が起きてくる。だからそれを何と申しましょうか。一網打尽というような言葉では当たらんでしょうか。けれども本当にそういう人間の、日常生活の上に、そうした窮屈な生き方というようなものを打破それを根底からです、そういう事は迷信だと。普請作事は使い勝手の良いのが、よい家相じゃといったような表現で、今迄の人間の心の中にあった、迷いと言った様なものを払おうとなさっておる。
 これは御教えだと思うです。実に窮屈な話。私は今日ここん所を結局本当の事。普請作事をする。例えば使い勝手のよいのがよい家相だと。本当な事を分かるところから自由な、縛られないこだわらんでよい生活が出来る訳ですね。実を言うたら愚にもつかない事を迷信して窮屈な思い、窮屈な生活をしておる者がある。それだけならいいです。本人が窮屈な思いをするだけなら。けれどもその事がです。天地の道理に合わない事を、思うたり行うたりするという事は、そのままが天地に対するところの御無礼。
 そういう事が知らず知らずのうちに、めぐりになって、難儀の元を作っている。例えば日柄方位なんかを言うたり、そういう迷信を言う。その本人はそげな窮屈な事と、第三者から見ると思います。けれどもそれが本人だけが窮屈な思いをしたり、生活をしておるならまだいいです。けれどもその事がです、前々のめぐりで難を受けておるといった事に、御理解三節にあります。本当でない事を本当と思っておる。
 「神仏の宮寺氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおる」と、ハッキリ仰っておられる。それは成程、何々というお寺さん。何々という神社の境内は、その神社のものだと。自分達の屋敷でも、これからこれ迄は、自分の屋敷だと言うておるけれども、実際は天地の親神様の地所なんです。本当は自分のものと思うておるけれども、実際は自分のものではない。実際は神様の御ものだという頂き方。
 これが本当な事なんです。そのわけ知らず、日柄方位ばかり見て無礼致し。それがいかに天地に対する無礼になるかという事。その無礼がです重なり重なって、巡り廻ってきて、難儀というものを形成する。難儀というものを作っていく。だから本当の事を知らないという事は、そういう事なんです。大変な事です。迷信でも自分一人が窮屈な思いをするだけなら、まだよいです。けれども、その訳を知らずにです。
 そういう事で天地に対するところの御無礼、自分のものでもないもの、神様のものを自分のもののような思い方をするような思い方がです。これは本当な事ではない。そういう事を分からせてもらうところから、日柄もなからなければ方位もない。自由自在天地の親神様の御恩恵、お恵みの中に、家を建てさせて頂くのであり、又は旅立ちをさせて頂くのであり、又は裁ち物をさせて頂くのである。昔の人達は、着物の裁ち物でも、日柄が悪いと、裁たないとこう言う。
 そういう窮屈な事だけではなくてその事が、天地に対する御無礼になるという、本当な事を分かるという事だ。金光様の御信心とは。だからこそその本当な事を分からせられた方達が、お徳を受けて力を受けられておるという。事実甘木の初代等の場合はです。安武松太郎というお方ですけれども。安武松太郎のものというのは、これから先もない。もう一切が、神様の御ものと、本当な事が分かられた訳なんです。
 皆さん、これはね難しゅう考えずに一つ、言うならざぁっと思うて下さい。でないと大変分かり難いです。そんなら当時日本一の大徳者と言われなさった、安武松太郎先生がです、本当な事が分かられた。そして本当な事を行じられた。一切が神様の御物であると悟られたです。そこからその御ものというものを、もういよいよ大切にされた訳なんです。本当な事を悟って、本当な事を行じるという事。そこから本当なおかげが受けられるのです。お願いしたからおかげを頂くといったようなおかげでは駄目です。
 本当な事が分かって、本当な事を行じて、そこに、本当なおかげが生まれてくるなら、それを本当なおかげと言うのです。それで、ここのところをですね。本当な事はいろいろありますけれども。例えば、甘木の初代の事を例に引きましたから、甘木の初代はです。一切が神様の御ものであるという事を悟られた。そこで御ものを徹底大事にされた。だから、本当のおかげが、あのようにして現れた。
 四神様の御教えの中に、「真で成就せぬ事なし」とおっしゃる。成就せぬその時には、氏子の真が欠げた時だとおっしゃっておられる。そこで、真とは真とはと言うて追求すると、大変難しい事になるです。けれども、今日、私が皆さんに聞いて頂いておる事は、皆さんが理屈こくつを言わずに、ほんにそうだと思われたらです。一切が神様の御ものだと分かられたらです、それが本当な事ですから、その本当な事を行じたら、おかげが受けられるのです。昨夜、久留米地区の共励会でした。
 昨日は、記念品の事で久留米迄やらして頂きまして、帰ってからお風呂を頂かせて頂き、夜の御祈念に出て来ようとしておりましたら、今日は久留米の佐田さん所の共励会に、誰も行く者がいないと言う。先生方が病気をして休んでおるとか、それぞれ御用があって外に出ておるとか、誰も行き手がないとこう言う訳です。そんなら私がおかげ頂こうと言うて、私は共励会に普通は出ませんけれども、夕べのような事はございませんでした。これだけの先生がおってから、行かれる先生が一人もいなかった訳です。
 だから末永さんが言ってくれるものと思ったところが、末永さんも具合が悪くて休んでありますとこう言う。それで信司さんが必ずあちらへ行きますから、信司さんの車であちらへ参りました。あちらへ着かせて頂きましたら、チャット末永先生先に行っとりますとじゃん。あらあんた来とったかという訳です。それで私が結局共励会におかげを頂いた訳でしたけれども。大変もう信心の方へ心を向けさえすればおかげ受けると思いましたですね。一番おかげを受けたのはのは私でした。
 昨日は。佐田さん所に参りましてから。また佐田さんも大変喜んで頂いた。とにかく久留米地区の方達に、何時も今日は共励会ですから、どうぞと言うて電話をかけたり、お願いをしたりするからみんな集まってこられる。
 けれども最近あのように親先生が、黙って黙ってと言う事を言われるから、黙って言わずにただ祈るだけを以って、おかげを頂こうという生き方でやらせて頂きましたら、やはり何時も来る人達が一人二人見えてなかった。ところが思いがけなく、私がやらせて頂いた。本当に黙って祈るという事の素晴らしい事という事の実感をです。昨日あちらの奥さんが話しておられました。とても私が行く様な働きという事の、例えば間違えたり狂わせたりしながらでもです。うちから誰も行き手がないという事です。
 末永さんは寝てるという事じゃった。その寝てる末永さんは実は行ってる訳です。それが分かっとりゃ私は行きはしません。そこに例えば佐田さんの奥さんの黙って治めるという事は、そういう働きにまでなってくる訳ですね。久留米の方達が皆集まって、一人一人尊い体験発表をして頂きました。その中で石井喜代司さんの話を聞かせて頂いてから、おかげを頂いたのですけれども。素晴らしい事を言われました。あちらの妹婿さんが自転車屋をやってます。
 ところがお父さんの時代からの自転車屋で、表は古いお粗末な自転車屋さんだったと、こういう訳です。ですからこれだけ単車とか自動車とかと言うのですから、もう自転車の時代じゃないから。どうでも一つ商売替えをしたいと言うて、兄さんである、喜代司さんの所に相談に来た。そん時に喜代司さんが言うておる事がです。本当な事を教えた訳ですね。大変難しい事を言ってましたけれども。兎に角あなたの商売には、お父さんの思いが、かけられておるだけではなくて、もう先祖からの思い。
 どれだけの先祖の願いというものが、あんたにかけられておるか分からないんだと。だから自転車がいけない等と言わずに。これは父親が譲っておってくれておる商売だから、あなたが、それを本気でやる気になってやるという事。私はそれを聞いた時に本当に驚きました。それは今教団で色んな言葉でですね、姿勢を作れという事を言われておりますよ。前向きの姿勢といったような事を言ってますよ。ところがこれではですね、確かに前向きの姿勢という事と同じですけれども。非常に言葉が弱いです。
 けれどもねやる気でやるという事の、言葉の素晴らしい事に驚きました昨日は。私は是でおかげを頂いた。やる気でやるという事なんだ。それはそんなら先祖からの願いとか、思いとかというものが、あなたの上には掛けられておる。それをあなたがしようかしまいかと、迷うておると言った様な事では、おかげになる筈はない。だからあんたが本気でね。是はお父さんからの言わば、先祖からの受け継がれた仕事だとしてです。
 本気でやるぞという気になってやったら、絶対おかげになるよと言うて、そしたらそれからそれもそうだなあと思うようになったち言う。それから間もなくでした。喜代司さんの古い自動車を、一万円でもうお金にもならないような自動車だったんでしょうね、一万円位ですから。それを弟達夫婦に譲っておった。自転車屋さんですから自転車の前に、何時も置いてから車庫がないですからね。ところがですね自動車が夜中にですね、居眠り運転か何かでしょう。自動車にぶっつけた。
 自動車はメチャメチャになって、表の古いガラス戸を打ち破って、新しい自転車を三台メチャクチャにしたそうです。ところがその人がね大工さんじゃった。だから一枚だけガラス戸を替えたところが、他の古いもんですから、あんまり見苦しいと言うたげなけん、そこを全部新しいのに替えて下さった。もちろん三台の自転車は、崩れたのは代金を貰うた。そして一万円でもろうたその自動車を、十万円払われた。そこで今度は十万円の自動車を買うたち言う。
 そしたら隣がどうでも立ち退かれるので買うてくれというので、隣まで買うた。そこで隣までずうっと長く、店舗を構えて今の自転車のバーゲンを始めた。ところがそれこそそれ以来というものは、それこそ笑いが止まらん程の繁盛しておると言う。兄さん本当の事を教えてもろうて妹達夫婦がですね、来るたんびに私にそれを御礼を言いますとこう言うのです。私は一万円の自動車を十万円とったとか、一枚のドアを全部替えてもろうたとか、自転車を三台壊されたから三台分の金とった。
 そこを信心でどうこうと言うのじゃないですけれども。例えばそういう災難がです。かえって有難い切っ掛けを作っておるという事を聞いて頂きたいのですよ。だから力を受けるとか、徳を受けるという事じゃなくてです。本当な事を私は夕べ帰ってからその事をすぐ、これに書かせて頂いた。一番最後に神様に御礼を申し上し上げさせて頂く時に、頂いたのがです。『真とは本当な事と』本当に、当然の事のようであるけれども実を言うたら、私共は真とは真とはと追求して。
 真とは分からないままにおるのが、金光様の御信者じゃなかろうかと思うですね。真とは真とはと言いながら、言うならば、教学的と言おうか、又は哲学的と言おうか。その真を追求して、結局自分達では分からないものにしてしまっておるけれども。真とは本当の事なんです。本当な事を真と言うのです。当然の事でしょう。けれどもそれを昨夜頂いてです。改めて本当な事が真だと。四神様が仰る、真で成就せぬ事ないと仰る。これは素晴らしい事だと思うたです。
そこで喜代司さんの言われるところの、やる気でやるという事をです。例えば真の事、本当な事を、やる気でやれば、これは絶対おかげになるという事です。どうぞみなさんそこをようと覚えて下さい。今こうして御造営なっとります、時折仕事をなさっておられる所を、邪魔しちゃならんから出来るだけ、休みの時に入って見るんです。今時の若い職人さん達の、職人気風というものは、私共が小僧時代に考えておった事と、全然違うですね。ご飯を頂いて引っ繰り返って、タバコども飲みよんなさるですみんな。
 そんなら私がこうやって私がここの教会長。紋付袴を付けて行くけん、それだけでも分からなければならんはずだけれども。ジロッと見ただけで寝ながら、もう目礼する人さえありませんですよ今時は。本当に私に言わすると程度が落ちたなと。けれどもそれが当然の事でまかり通る時代なんですね、今頃はお金貰っておるから働いておるのです。言わば働いてやっておるのである。だから例えばそこの主人が来たからと言うて、別にお世辞なんか言う事はいらないと言った様な考え方じゃないでしょうかね。
 ところがです、昨日一昨日でしたか、大和さんが畳をしておられた時でしたけれども、そこからちょっと覗かせて頂いたら、左官大工今塗装もやってるし、張りものもやっている。もう沢山の職人さん達がですね、それぞれの現場で一生懸命にやっておるという事です、左官は左官で。その自分の仕事を一生懸命やっておる、その姿に触れた時に私はひとつの感動を覚えましたですね。
 兎に角一生懸命やっておるという事は素晴らしい事です。所謂やる気でやっておるという事なんです皆が。ここだけは自分の働きの場だという所を、皆がやる気でやっておる姿の美しい事。お百姓さんが野良着を着てから一生懸命鍬をもったり鎌をもって働いておられる姿が美しいようにです。職人さん達がそれぞれの左官は左官、大工は大工の仕事を一生懸命に打ち込んでおる姿と言うものは、この様に素晴らしい。あれがやる気なんです。例えばここに御用にやって来るでしょう、皆さんが。
 本当にやる気でやってないんですよ。せにゃんからしとる。本気でやる気でやるという、その在り方がです。しかもそれを本当な事をです、やる気でやるという時にです。おかげになるのは、当然だと思わせて頂いておる。自分の仕事でもですね、今の自転車屋さんじゃなかばってん、親から譲り受けた自転車屋じゃあるばってん、いっちょんしゅうごつなか。自動車やら単車やらがこがしこするなら、自転車は駄目だ駄目だと言うて、しておるのはやる気がない訳です。そん時には全然繁盛しなかった。
 ところが本当にそうだと気が付かせて頂いたら、例えて言うなら災難のような事が起こっておる、そこをきっかけにですトントン拍子で、自転車のバーゲンセールが当たっておる。それこそ笑いが止まらないほどしに、大繁盛しておると言うこと。しかも隣の方の店舗まで買われたから、ずうっと長い店舗になってですね。それはやる気でやったからです。本気で自分がやる気になってやるから、おかげになるのです。しかもそれを本当な事をです。やる気でやったらどういうことになると思うですか。
 例えば甘木の初代がです、一切を神様の御ものであるという、本当な事が分かられた。そこで本当な事をです。徹底してやる気でやられた。甘木の初代の為には、一本の枯葉でも枯れ枝でもです、神様の御ものだからお粗末にはされなかった。一昨日から昨日にかけて信心実習会があった。ここからも九名の方達がおかげを頂いた。帰って来て一番素晴らしかった事は、掃除が行き届いておるという事です。お客さんがあるから綺麗にしようといった様なものじゃなくて、驚くばかりであった。
 まあひとつ驚いたのは、夜になって電気が、それこそ見事に、パッパッパッパッと消されていく事である。私は昨夜、久留米から帰らせて頂きましたら、表の脇殿の大きい電気が全部、それこそ、こうこうと点いとる。何かありよるじゃろうかと思うた。誰もおらん。裏へ行ったら、風呂場が三つながら電気がついておる。これは、昨日に始まった事ではありませんけれどもです。
 例えば甘木の初代がですね、本当な事が分かられた。神様の御ものであるという事が分かられた。だからそれをです。使う時にはどれだけ使うてもよい。使う事がその電気を生かす事ですからおかげです。けれどもなあにもない所に煌々と何百燭光の電気がついておる。こんなに御無礼な事はないですよね。是は合楽の人達はここの所をです、おかげ頂かにゃいけんなと思いました。使う時にはどれだけ使うてもいい。けれども要らないと言うたら小さいのを一つつけて、後は消してしまわなければいけない。
 それが本当な事を分かって、本当な事を行ずる事なんです。ここで皆さんに聞いて頂いておる、本当な事。成り行きを大事にするとか、御事柄として受けて行くという事はです、これは真の事なんです。それが本当な事なんです。だからその事をです、やる気でやるという事です。この事だけは御事柄で頂くばってん、この事だけは受けとらんと言うなら、もう受けてない事と同じことでしょうが。
 やる気でやってないからですよ。成り行きを大事にせにゃ成り行きを大事にせにゃと言うて、やっていきよるばってん、時々は成り行きを大事にしないでしょう。徹底しないでしょう。信心とは徹する事です。神様の御ものであるという事が分かったら、その神様の御ものを十分に使わせて頂く事によって、感謝の意を表わすという事と同時にです。必要でないならばです。例えば電気の場合なんかはそれを無駄な事をしない事が、神様の御ものを大事にする事ですから、これでお徳を受けないはずがないです。
 成程枯葉枯れ枝一本一枚でもです、神様の御ものであると分かったが最後です。これを押し頂いて、頂かなければおられないという、真の事で成就せぬ事がないと仰る。その真の事を徹底して行じていくのですから、成就するはずですおかげが。ですから今日例えば真とは本当な事。本当な事をやる気でやればおかげになるという事です。そこで私が言うておる事をそれが本当だという事が、皆さん分かったらです。その本当な事をやる気になってやらなければいけないという事です。
 例えば御用をさせて頂いてもです。やる気でやらなければ駄目だと言うこと。例えば草取り一本させて頂くでもです。やる気でやってない。だから出来るだけ汚れん所を、出来るだけ格好ええ所を。先日のここの御用の日に、久留米の佐田さんが、こんな大きな柱をかたげてドンドン出しよんなさいました。こういう事はね、やる気でやらなければ出来るこっじゃないです。ちょいとあんた、そっちを持ってくれんのと、たった一人でよかつに、二人も三人もかかってからやりよる。
やる気がないからです。ここの職人さん辺りが一生懸命やってる時には、やる気でやってる訳です。日雇い人夫の方達が来てます。地下室から水を運ぶのにバケツにちょこっとばっかり水を汲んで、あの長い石段を持って行って、窓をくぐってそして、こうやって零して行きよる。兎に角一日どうかシダゴダしよれば、給料だけは貰うという根性ですよね。全然やる気がないです。只飯の為にと言うかパンの為に、ただやっておるのですから、そう本気でやらなくても、いい訳なんです。
 給料は同じ事ですから。やる気がない人がやっておるという。特にそれは御用の場合なんかですね、やる気でやらなければです。勿体ないですね。しかもそれが神様に喜んで頂く事につながる事と分かったら、それが本当な事だと分かったら。それをです、本気でやる気でやるという姿勢をとらせて頂いたらです。必ずおかげになると思います。お互いの場合は、ひとつ胸に手を置いて考えてごらんなさい。やってはおるけれども、お参りはしておるけれども、やる気でやってないから。
 しかも本当な事を知りながら、やったりやらなかったりだから、真が欠げたと、ひとつ本当で悟らせてもろうてです、真で成就せぬ事はないとおっしゃるのだから。そんなら真とは、どういう事かというとです。大変な難しい事を言わずに、今日は、真とは本当な事だという事なんです。ですから、真とは本当な事をです、ここでは、日々聞かせて頂いておる訳です。それを今日は、石井喜代司さんの例と、甘木の初代の例を取りました。甘木の初代が、一切が神様の御ものであると分かられた。
 だからその御ものを大切にするのですから、神様が喜びなさらんはずがありません。しかもそれをです、枯葉枯れ枝一本でもというところは、やる気でやってるから、それが出来るのです。道をお歩きになるでもです。下駄が片擦れしちゃならんと言うてから、下駄を履き替えられたという途中で。タオルいっちょでもです。こうやって力のかぎり絞られた事はないち言う。そげんすると弱かと。だからその事に、いよいよ徹せられた訳です。だからああいう大徳を受けられた。
 御ものと悟らしてもろうて、その御ものを徹底して行じられたという事は、真を本当に、実際に表わされたという事です。やる気でこれは一例ですよ。だからこれは本当な事と分かった事。例えば今日の日柄方位でもそうです。やっぱですのや、世間で、今迄言うておる事じゃけんで、やっぱり日柄も見らにゃ方位も見らなければ。結婚の時には、やっぱり黄道吉日がよかと言う事は、たったそれだけの事のようであるけれども、それが天地に対する無礼になるという事を聞いたらです。
 いつもがよい日として、頂く事に徹底しなければ、本当な事を行ずる事にはなりませんのです。今日私六十五節からです。本当な事をここでは教えておられるという事を聞いて頂いた。そんなら本当な事とは、どういう事かと言うと。それが本当な事を分かるという事は、真が分かるという事。本当な事を行ずるという事は、真の事を行ずるという事。しかも行ずる事も、やる気でやるという。おかげを頂くから、本当のおかげが頂けるようになるという事。だから今日の御理解はね。
 難しゅう言わずに、もう本当に、私が言うたところだけをそのまま信じて行けばいい御理解です、今日の御理解は。そしてですね本当な事を今迄沢山、皆さんが分かっておられるでしょうが合楽では。本当の事を分かっておられる事をです、ひとつ本気でやる気になって、それを行じてごらんなさい、必ずおかげになるです。そこんところを中途半端にするからおかげにならん。やる気でやる私は今日はあんまり実際は簡単な事だけれども、私が昨日から本当にこれだと。
 有難いと思わせて頂いた事を、今日はたまたまこの六十五節からです。これは日柄方位とか何かの、本当の事であるぞという説明ではなくてです。これは本当な事を教えておられる御教えだという事です。日柄方位だけの事じゃない。教祖は本当の事を天地の道理をふんまえて、教えておられる。だから私共が分かっただけではなくて、分かった事を、本気でやる気でやるという生き方を、生活の上に表していくという事。信心の上に現わして行く事。是なら絶対におかげになると言うこと。
 そこん所が、徹底してないという事。
 それは何故かと言うと、やる気でやってないからだという事。本気でやる気になったらです。それが真を行ずる事になる。真とは本当な事というほどしに簡単な事。所がですこれは本当な事と思うておる事が、本当でない場合が沢山あるです、お互いの考えの中に。それを教祖様はこの様にして、一つ一つ正して下さる改めさせて下さる。思い方の中に日柄とか方位とかと言った様な事をです。結婚する時にはやはり黄道吉日でなからなければならんと言った様な思い方をです。
 そういう事は迷信だぞと。そういう事は嘘だぞと。本当の事を教えて頂いたんですから、それを本気でそうだと頂くだけの事。真とはそういう事なんです。真とは本当な事。本当な事をやる気でやればおかげになる。おかげになってないならばまぁだ本気で、やる気でやってないんだという事を、ここのところを繰り返し繰り返し言うたのですけれども。どうぞ皆さんも繰り返し繰り返し、今日の御理解を心の中に頂き直して、成程やる気でやっていなかったなぁ本当の事を分かりながら、そしてそれを行じていなかったなと、反省させて頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。